水曜日, 4月 28, 2004

踏み絵を見た4月

かつて隠れキリシタンの方達は命をかけて踏み絵などで信仰をためされた時期があった。恐らくどこの国でも似たようなことはあったのだろう。何かそんなこと を考えさせられる4月の事件だった。曲がった正義感と本末転倒な責任追及、屈折したイデオロギーに偏重報道。まさに現代版の踏み絵いったところかもしれな い。しかし、幸いなことに朝、昼、晩の定番偏重報道番組は数年前から見切っていたので不快な思いはせずに済んだ。いや、今回常軌を逸した失言を機関銃のよ うに発射した暴走キャスターの番組や、穏和だけど危ないおじさんの番組を見る習慣のない私はむしろもったいないことをしたのかもしれない。いやいや、都合 のいい(何処に対してだなんて私に言わせないで)翻訳をした番組もあったらしい。これは別に今に始まったことではないが、推理ドラマ10本分ほどの不可思 議な状況や理解不能な偏重報道が次々と出てくるのだから、決定的に何処が、誰が、何が崩れているのかが、子供にすらはっきりと分かってしまった現代史に残 る事件というべきかもしれない。それをリアルタイムで体験出来たのは幸運であったのか不幸であったのかは何世代か後の人が論じる話かもしれない。しかし、 たかだか60年ほど前の話ですら既にいわれなき圧力で歪められつつある我が国に、何世代か後の方達の場というものがあるかどうかは分からないが、少なくと も今回の事件でそれが少しだけ延命されたのは確かだろう。私はそう願っている。そして、まともな人の方が圧倒的に多いと言うことにしかるべき関係者は気が 付いていない事の方がむしろ滑稽にさえ感じられる。これはインターネットというリアルなメディアの存在が無ければ気が付かなかったことかもしれない。それ にしても、これはもしかしたら旧態メディアに引導が渡されてしまった瞬間ではないだろうか。そうでもないのかな〜。(column: 1528)